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続 措辞 ●となる

続 措辞 ●となる

先に 自作の「となる」「となり」の作例を挙げたが これを他作に
切り替えて検索すると各々 1450件 675 件がヒットした。あまりに
も数が多いので以下には その一部を挙げる。
実は今回ここで「となる」の作例を引用したのは この俳句検索db
の能力をいいたい為である。
今 このブログは寝床でiPadを駆使して書いている。というのも2週間
前あたりにセコハン機のiPadを購入して来て操作法もまだ不慣れなな
かで書いている。駆使とはそういう意味である。

●となる

三味かかへ稽古はじめの妻となる 成瀬正俊

門松のみどりしづかな雪となる 井沢芹風

空はただ空、落葉はひとり煙となる 荻原井泉水

狐らの夜となる夕焼野にくらし 堀口星眠

雪となる雨を見てをり実朝忌 角川春樹

年越祭影あつまりて人となる 滝南窓

雪達磨眼を喪ひて夜となる 角川源義

放たれてたちまち狩の犬となる 遠藤若狭男

母となる日の遠からず毛糸編み 遠藤若狭男

悪役となる足袋きつき控室 北光星

風の子となるマフラーの吹流し 上田五千石

ふりかぶり着てセーターの胸となる 不破博

慈善鍋昼が夜となる人通り 中村汀女

はぐれ来て羽子板市の人となる 結城昌治

肥前しぐれて光体となる壷の群 佐川広治

冬日宙少女鼓隊の母となる日 石田波郷

君骨となるを待ちをり神無月 秋山巳之流

萩の野は集つてゆき山となる 藤後左右

蜂蝿の遊び場となる乱れ菊 阿部みどり女

幾つ食べれば山姥となる一位の実 山田みづえ

霧いつか雨音となる新松子 古賀まり子

栗売の声が夜となる飛騨盆地 成瀬櫻桃子

松虫や子等静まれば夜となる 阿部みどり女

水に来て蜻蛉が翳となる日暮れ 山上樹実雄

啄木鳥の影ながらすぐ声となる 堀口星眠

椋鳥の無数の声の渦となる 阿片瓢郎

新藁の香を積み月の村となる 柴田白葉女

七夕竹いづくに置くも雨となる 吉田鴻司

●となり

梅天の蝶影となり羽となり 高木晴子

渓声の松蝉となり巨樹となり 長谷川かな女

べらを釣る屋島舳となり艫となり 三浦恒礼子

お松明火車となり火滝となり 後藤綾子

噴水の穂の玉となり線となり 大隈 草生

枯山河吸ふ息となり吐く息となり 原裕 『葦牙』

掌に火をたもつ蓬髪となり不眠となり 隈治人

神となり幕引きとなり里神楽 常重 繁

破魔矢受く子は父となり母となり 長谷川史郊

斜塔となり雁塔となり茎立てり 百合山羽公

初釜の幾たりか妻となり母となり 遠山弘子

山霧となり霧山となり明けし 滝青佳

火祭の火の燠となり星となり 関森勝夫

梅天の蝶影となり羽となり 高木晴子

凩や木となり草となり父は 西川徹郎 瞳孔祭

連打いま 弾痕……となり 星座……となり 折笠美秋 虎嘯記



以上
by 575fudemakase | 2013-10-29 07:34 | Trackback | Comments(0)

措辞 ●「となる」

措辞 ●「となる」

目下 角川の「鑑賞 日本の名句」を読んでいる。
秋ということでそのしょっぱなの部を読み始めていると以下の登四郎の句に出あった。ここで「となる」という措辞に注目した。そう言えば作句ではよくこの措辞使うもの。自分はどれぐらい使っているか調べてみたい。実は10年程前に俳句検索DBなるものを作っていてそれを利用して得られた結果が以下のものである。


くちびるを出て朝寒のこゑとなる 能村登四郎 

季語は〈朝寒〉。晩秋になると朝の気温が下がり、肌寒さを感じるようになる。それが「朝寒」である。迫り来る冬の気配に心許なさを覚えることが多いころだが、この句では、「くちびる」という柔らかな体の部位を出た息は朗々とした「こゑ」となり、外界へ自らの存在を押し出すかのような強さとして詠まれている。句集『定本咀嚼音』の巻頭句である。

(鑑賞 日本の名句 『俳句』編集部 編 平成25年7月15日)

小生の「となる」「となり」の例句

●「となる」

莫迦となる錠や西日の硝子窓 高澤良一 暮津

ごきかぶり団子喰らひて御用となる 高澤良一 暮津

郁李や早め早めとなる起居 高澤良一 暮津

日課となる朝顔の世話水の世話 高澤良一 暮津

スピンの脚いま針となるスケーター 高澤良一 石鏡

物数奇がかうじて飾り南瓜となる 高澤良一 鳩信

蟻んこの遊び場となる仏足石 高澤良一 素抱

一切が丸見えとなる万年青の実 高澤良一 随笑

残菊に切羽詰まりし雨となる 高澤良一 随笑

首筋を吹かれて恋の猫となる 高澤良一 随笑

梅雨どきの鰐が御用となるニュース 高澤良一 寒暑

風止みて巨珠(おおたま)となる家桜 高澤良一 寒暑

墨堤に花人となる足慢ろ 高澤良一 寒暑

蘭展出で銀座通りの人となる 高澤良一 寒暑

山の温泉(ゆ)に骨抜きとなる三ケ日 高澤良一 寒暑

遠からず蛤となる雀これ 高澤良一 燕音

合流して春の小川の音となる 高澤良一 燕音

岩化してダルマオコゼとなる暮春 高澤良一 ぱらりとせ


●「となり」

馴れ合ひの台風となり手を抜けり 高澤良一 暮津

種採のほかに用無き庭となり 高澤良一 暮津

白萩は大鳥となり月明に 高澤良一 暮津

降り出して脇目もふらぬ雪となり 高澤良一 暮津

いとたやすく手捕らる蝉となり果てしか 高澤良一 暮津

下田稔兄
割干の辺の雑談が最期となり 高澤良一 石鏡

百千の鴨の一つとなり湖上 高澤良一 鳩信

庭木芽吹く頃となりをり下女詰所 高澤良一 鳩信

腹蔵なき敗荷となり天が下 高澤良一 素抱

水打つや砂玉となり水まろぶ 高澤良一 素抱

酢海鼠となり果てし身を箸に懸け 高澤良一 素抱

海鼠食べられて曖(おくび)となり出づる 高澤良一 素抱

その内が来年となり大つごもり 高澤良一 随笑

ブラウンシチュウ灯と火恋しき頃となり 高澤良一 随笑

かなぶんの支離滅裂となり当る 高澤良一 随笑

年金の出る齢となり鳩麦茶 高澤良一 宿好

年男さすれば龍となり舞はん 高澤良一 宿好

湯治場のすすき群がる頃となり 高澤良一 寒暑

商風に際立つ翳が波となり 高澤良一 寒暑

やたら落ち手のつけられぬ雷となり 高澤良一 寒暑

勝手に目覚める齢となり蕣 高澤良一 寒暑

楢山は尾羽うち枯らす山となり 高澤良一 燕音

秋津島颱風窺う頃となり 高澤良一 燕音

瀧となり落ちたる水の大循環 高澤良一 燕音

素足となり踏んづけてみぬオカヒジキ 高澤良一 燕音

白妙の昇竜となり糸櫻 高澤良一 燕音

目くるめく光体となり氷河馳す 高澤良一 ぱらりとせ

以上
by 575fudemakase | 2013-10-28 04:21 | Trackback | Comments(0)

ねずみのこまくら句会10月小生選

ねずみのこまくら句会10月小生選

ネット句会を始めて14年くらいになろうか? 参加者は20数名で
句歴も20数年以上の方々?因みに句の前の数字は選句稿の通し番号
この通し番号を10ケ選んで高点句を集計する。結果は高点句順。
しかし 皆さん気づいているのは自句を誰が採ったかということが
最大の関心事。具眼の士のいない句会は何の意味もない。


さて今月の小生選は・・・・・


7 秋そうび蕾ながらに傷みけり
やはり秋そうびしかないですね。春夏冬は駄目。

30 胸に射す日矢より孵るハトムシよ
ハトムシとは絶妙なものに目をつけましたね。
そこをよく観察して一句としましたね。

84 十六夜の月天心に夫遅し
上天の月から夫へ思いが及ぶ。194と同工異曲。

126 朝寒の息より水のぬくとかり
俳人の感性よい五体が感じとったもの。

134 顔中で喜ぶ化石秋うらら
顔中なる一語が下敷きとなって味わいある句と
なった。
大野林火の句に
顔中の皺をあつめて寒さいふ 方円集 昭和五十二年
がある。掲句は 顔中といふ言葉から林火を呼び出し化石
に繋がっている。これが出来るのは同時代人として句を詠めた
という作者の自負があるのだろう。

142 柿熟れてひとりつきりの夜が来る
いやに心象的な句である。まあいろいろな事を思わせ振りな句

160 鈴虫の餌のえぐれの深きかな
えぐれの深き がリアルな写実。このもっともらしさがいい。
ときに 写実は下手なレトリックを凌ぐ

164 蕎麦猪口に新蕎麦の粉付いてをり
これもよい写生句。ちょっと素朴感もあり

185 大王松越しに船ゆく良夜かな
言ってみれば濱調。懐かしいと言えば懐かしい。古いと言えば
古い。

194 初鴨の着き城下町定休日
初鴨の着き とは自然を詠じたもの。定休日とは人事。
謂わば自然と人事の結びつきをうまく詠んだもの


以上
by 575fudemakase | 2013-10-19 07:15 | Trackback | Comments(0)

永淵惠子句集「ワシントン椰子」を読んで

永淵惠子句集「ワシントン椰子」を読んで

「白桃」同人 第一句集 文学の森

共鳴句 高澤良一・抽

小次郎と名づけてやりぬ初燕
帰省子の喋るや喋る寝るや寝る
真ん中は色違へたる柿すだれ
お花見の最高潮の炭坑節
娘も国語教師の道や赤とんぼ
弾みけり観世音寺の初雀
姪結婚
花婿は癒し系なりかすみ草
くんち客さばく駅員赤法被
菜の花や開聞岳は海の色
魂祭母の孫の手飴色に
太陽に預けて*さより連刺しに
教室にプールの匂ひつけて来し
南座に大絵看板ソーダ水
自転車をこぎゆく祭化粧の子
道後駅燕の駅でありにけり
内子座の廂二番子まだ飛べず
鶯に口笛吹いて答へけり
肘張って持つどんたくのプラカード
帰省子の西に東に出かけをり
花火開く少し遅れて水面にも
油照り老後託すに足りぬ国
小路なべて寺に尽きたり龍の玉
菅公に三千の梅仕る
ほうたるも星も大粒上五島
顔も手も長き享保の雛人形
秋澄めり船にも祀るマリア像
日本を称へて終はる手毬歌
そねむとは一途なること久女の忌
摘みをれば「土筆ですか」と寄り来たる
白酒に少し酔ひたる子の本音
傾けて背の子に見するチューリップ
あの夏のフランスデモに始まりし
つぎつぎと佳き町の名の太皷山車
百までとつぶやかれたる生身魂
亭亭とワシントン椰子鳥渡る
街道の構口より虎落笛
とっぷりと暮れし旅籠の牡丹鍋
麦を焼く太き煙も筑後かな
みな老いて棚田の水を引き終へし
立ち上がり草刈鎌でさし示す
水鉄砲いともたやすく生き返り
火を落とし帰る鵜舟の速かりし
阿蘇谷を丸ごと洗ふ大夕立
炎昼を来てごくごくと宗祇水
小鳥来てをり国勢調査書いてをり
息とめて大き雄鹿をやり過ごす
角切りの大きポスター奈良漬屋
鑑真の寺の木の実を拾ひけり
跨って空飛べさうな山の芋
目隠し女相撲おほかたあびせ倒すなり
明太子あれば機嫌のすぐ直る
揉み合ひし背に手形あと玉せせり
奴凧もっとも兄が好き
鳥帰る節目はいつも博多駅
弟はいつも弟葱坊主
一斉にすし飯煽ぐ春祭
どっさりの螢と地元案内人
花石榴女ばかりの国文科
夕涼や津和野はどこも丸ポスト
三畳の蔵の勉強部屋涼し
涼しさや墓に森林太郎とのみ
ことに濃き薬師の寺の実むらさき
遠き日の父の土産の肉桂水
やはらかく団扇に招き入れらるる
安曇野はどこの家にも一位の実
烏瓜みな晒されて原城址
堪忍の果の一揆ぞ曼珠沙華
高千穂の闇へ野太き神楽歌
替はりたる笛方少し咳こぼす
高千穂の一夜は長し神遊び
浦上の若葉に力ありにけり
新緑のひときは南洲自決の地
特攻の世もしたたりて薩摩富士
葉桜や征きたるままの兵ばかり
狙ひ打ちされし草矢に泣きしこと
季長の顔より白き卯波立つ
仏頭に祈りし若き日の夏も
草笛をあの日のやうに吹いてみる
石仏に絶えぬ水音ほととぎす
河鹿鳴く豊後は水の良きところ
一の滝二の滝遠く三の滝
門川に堰板渡す水の秋
江漢も来たる捕鯨の島大暑
送り火を火掻き棒もて太らする
島原初秋いたるところに猿田彦
蕉門のことに丈草龍の玉
負独楽の色を散らしてなほ回る
雪吊りの結び目に雪残りけり
石山の大いなる石囀れり


以上
by 575fudemakase | 2013-10-18 18:46 | 句集評など | Trackback | Comments(0)

HAIKU201310sono8

HAIKU201310sono8


野分して葉山の海の波しぶき
あまりにも雲が低しと野分鳶
台風の黒雲江ノ島方面より
窓硝子びだびだ打ちて野分雨
海上より押し込んでくる野分雲

看護婦の云へる
「つらくない」「つらい」の問いかけ急患に
診察も浜木綿枯る中長丁場

葉山ハートセンターに釘付け虎落笛
秋じめり病巣探るレントゲン
秋雨のいつか止みゐし水溜り
秋風に地魚料理の白のれん
黙し待つ外来患者は鯥のごと
松ぼくりまろばせ通る御用邸
蛸漁師鮮魚仕出しを商ひに
逗子
池子弾薬跡地のもみぢし初めけり
蛸漁の小坪経由のバス待てり
その高みに紅葉見つけ一喬木
肌刺して鏃のごとき野分雨
雨とバスいづれが先か枯岬
砂礫打ち雨は駆け足浜万年青

夏山行大正生れが最年長
ウインドサーフィン翅活きづかせ蝶のごと
緑立ち遊覧御随意三渓園
エイッままよと噴水のとばっちり
鉛筆をタテヨコ噴水写生の子
楊梅の下風潮の匂ひして
この炎色山ももの木かここに実が
バラ落ちてうち砕かるる陣屋坂
写メールのバラ撮り海老腰突き出して
七十の手ならひバラの水彩画
バラの写生図画が得意の子と見へし
パレットを路肩に写生子昼餉とる
写生子のあち向くこち向く掃部山(かもんやま)
葉桜も見頃と山手の坂をゆく
海紅豆胴ごと切られ薫風裡
銭葵クリフサイドに通ず径

丹沢晴れ箱根空木の紅白に
葉桜の吹き絞らるゝ土手をゆく
夏川の鷺暮れなずむ橋ほとり

平塚 花菜(カナ)ガーデン
バラ園の真中に置かる天使像
バラ園の風の集まる見晴らし台
壁咲きの鉄線南中の日を負ふて
クレマチスバラを引き立て日は南中
鉄線の壁垣苑の椅子越しに
ぎぼしの昼バーク敷き詰めバラガーデン
日傘ぽんぽんと開いて花菜(カナ)ガーデン
バラ折りしここでバラ撮りゆきし奴
ばら垣はケリヤ・ヤポニカ色あい佳し
バラに映ゆスモークツリーの暗紫色
黒装ひバラの真中に収まり撮る
バラと雲いい色合いで飽きも来ず
衆目を集むバラの名ニューウェーヴ
黒バラに気圧され一寸立ち眩み
バラ見歩く深き帽子の中に貌
バラ園の高台に来て大き息


連なれる葉桜軍艦長門之碑
江ノ電の音伸(の)し来るや石蕗の花
先生の講評朴の木の下で
同色にばれいしょの花四方の嶺々
人っ子一人いない浜辺で素足の我
十薬を抜かねば雨雲厚くなる
風渡る音に表情聖五月
森渡る風音杳と聖五月
聖五月おつむの中に鳩棲まはせ
噴水を踊らせアドリブ手風琴
引き伸ばす音に表情巴里祭
手風琴蛇腹捌きも聖五月
葉山沖富士は真白に総鎮守
イカ飛行機頭より突っ込む梅雨畳
録音が跳んだり踊りの〈乗り〉の悪し
とつおいつぼんやり虫の声など聞く
参道に提灯が咲き段葛
天高く大工が大き音立てぬ
書が一つ掲げある部屋つづれさせ
寂びる草先師尊びゐるだけでは
拝観のたいしたことはある牡丹
日当りに風誘ひ出す寒牡丹
島國の日本に生まれ冬ぼたん
丘に曳く日脚の長く冬ぼたん
冬牡丹ここらかたまり暖色系
寒牡丹一丘陵の花くらべ
藁苞は夕陽のぬくさ寒牡丹
冬ぼたんたること忘れ日に浴す

一艘をかしこみかしこみ雛流し
流し雛一間の舩潮に乗せ
流し雛稚魚の夕影跳梁す
流し雛祝詞に交り波の音

松手入真正面にかかりきり
夏袴神事なかなか始まらぬ
穂草充つ多摩川べりを電車でゆく

加藤郁乎
平板になど読めぬ句を郁乎の忌
糸瓜への親炙と敬意獺祭居士
年新たか薪放てる火の粉千々
年の火の焚き手は町内消防団
ぐしょぐしょに国道濡らし風花す
六花枝に降り立ちむめの花
紅梅の空を展きて風花が


以上
by 575fudemakase | 2013-10-17 10:58 | 自作 | Trackback | Comments(0)

HAIKU201310sono7

HAIKU201310sono7

シーパラダイス
鯊日和シーパラ出来て二十年
プレジャーランドシーパラいわし雲の下

これみんな鯊を釣る人岩畳
遊船の案内放送海の上
秋晴れの島内遊覧汽車ぽっぽ
八景島一日遊覧敬老パス
ワンデーパス爺婆無料の敬老日
白イルカのおでこ瓜よりすべすべす
電気ウナギビリビリ・ビリーに逢う会場
ミノカサゴ腰つきよろしくフラダンス
記念写真白イルカとのツーショット
皆と撮り白イルカとのフォト千円
槽底(ふなぞこ)の隅っこにエイねずみ貌
イルカに触れ八景島の海牧場
ヤシガニが椰子の空からコンバンワ
何かをる鮫ゐる海のその暗部
生きものの容を海月披露せり
槽底(ふなぞこ)を点す灯ちゃうちんあんかうか
槽底(ふなぞこ)のちゃうちんあんかうと睨めっこ
館内の足もと真っ暗水クラゲ
水を蹴り匍匐前進アオリイカ
夕焼け見て島一周のクルーズ船
口開けてパックリジンベイザメの芸@おおおお
フラッシュ浴びアブラボウズといふ魚
水槽のウツボみんなに背を向けて
その泳ぎうなずくやうにオウム貝
突起しておのが身支ふボウズウニ
そのギョロ眼水槽擦ってシュモクザメ
墨つけて頭部が不細工マツカサウオ

フグ目ハコフグ科
ウミスズメてふ魚その装(なり)只の箱

おのぼりに秋の箱物イルカ館
熱帯魚に隙間だらけの岩組んで
水族館水槽気泡の大銀河
ヤドカリはザック背負ひて濡れ干潟
アリゲーターガーだかギーだか藻草の中
ぬいぐるみジンベイザメに掌咬まさせ
つつつつとイルカの水上尻滑り
ドドドドとセイウチ滑るラストショウ
空中を三転イルカのひねり業
てんこもりアイスクリームシーズン去る
ぬいぐるみエイのお腹は真っ白け
ぬいぐるみ亀のお目めは皆睡げ
ぬいぐるみセイウチの牙布制で
八景島遊船巡らせ椰子亭々
アンコウのゆるキャラ愛敬振りまけり
ハワイアン椰子の葉陰でテケテケと
島巡りも終盤背に負ふ秋夕焼
島巡りの初っぱなイルカでも見るか
糸巻きエイ海底に腹擦りてゆく
マンボウは大洋(オーシャン)をゆく航海者
マンボウの目をキョトキョトと水槽越し
マンボウは旅する魚赤道ゆく
マンボウのふはふは泳ぎ夢見勝ち
ジンベイ鮫昼寝などして正夢を
遊園地飛んで灯の入る複葉機
昼寝ばかりするマンボウのムクムク肌
ここ小人その横大人トイレの秋
水槽に昼寝欠かさぬ大マンボウ
大マンボウ貌でリズムをとりながら
銀河系さながらスーパーイワシショウ
沖に出て夕焼け堪能クルーズ船
チャリ寄せて夜釣黒子の五,六人
イルカとの握手次いでのハイタッチ
ペンギンのハロウィンパレード総拍手
セイウチは拍手に照れてその渦中
アザラシの鰭使ふ芸フレンドリー

あざらしはアイヌ語で「トッカリ」
さうなのか語源の由来はアザ(痣)ラ(之)シ(獣)か
「ラ」は接辞で接尾語のラが発達したもの

触れ合いショウイルカのおでこ二度タッチ
水中にも風あるごとしエイ泳ぐ
こもり居の暗さ鮃の伏す暗さ

ハロウィンの先がけ布哇(ハワイ)のチョコ届く
一足さき航空便にてハロウィンチョコ



以上
by 575fudemakase | 2013-10-16 07:31 | 自作 | Trackback | Comments(0)

新樹滴滴拾遺

新樹滴滴拾遺


▼四月号で伊藤博先生から文章をいただいた。原秀子さんの歌集評である。伊藤先生は万葉学の泰斗であり、『万葉集釈注』全十一巻など多くの著作があることは、四月号の吉川君の後記にもあるとおりだ。人麻呂に関する歌俳優説などの卓説もある。
数年前、こんな歌を総合誌に発表したことがあった。

花に膨らむ高遠城址に立ちて想う京都府立嵯峨野高等学校非常勤講師伊藤博氏 『饗庭』

おそろしく字余りの歌であるが、もちろん意識した字余りである。高遠城址と伊藤博氏がなぜ繋がるのか、このキーは読者にはまったく与えられていないのだから、かなりひとりよがりの歌ではある。下句の名詞の羅列がひとつの試みと言えようか。科学関係の知人たちと高遠の桜を見に行った折りの作である。

(新樹滴滴 「ハクさんのこと」 永田和宏 白水社)

実は上のくだりを読んでいてすかさず思いだしたのが下記。ひとりよがりが共通点。
定型詩ではあまりにも私的な素材は疎まれるものであるが、時にはこれを持ち出してみようかなどという衝動にかられる。

八つ手の葉は七葉から九葉の間と聞けば
八つ手咲けばその葉数へて植栗トリ 未発表

秋海棠思ひ至るは相田サク 素抱

ここで 植栗トリ 相田サク とは誰か。私の近縁者である。
トリは隣家のお婆さん。その娘が毎晩内職でミシンを踏むのを至近距離 およそ五メートルくらいから聞いて
いた。その娘も今は亡い。今でも隣家との境には八つ手の木が一本。
サクは祖父 髙澤繁蔵の妹で田舎 栃木田沼で髙澤家をギョロリと見守った畏敬に値するお婆である。


▼短詩型のむずかしさは、自分の文体を確立するということ以上に、そこから抜け出すことの困難さにあるのだろう。自分の文体を嘗めながら、そして少しずつ破りながら、一首一首新しい何かを模索し、蛞蝓のように這っていくしかないのである。

(新樹滴滴 「殻を破ることのむずかしさ」 永田和宏 白水社)


▼花山多佳子さんの第五歌集『空合』が届いた。もう少しすれば「塔」でも批評が載るのだろが、とてもいい歌集である。
現代はとても忙しい時代であり、毎月毎月圧倒的な数の作品が、総合誌をはじめとして、いろいろな結社誌に発表される。ゆっくり作品の味わいに付きあうという余裕がなくなってきた。いきおい、メリハリの効いた目立つ歌、意味的に問題をはらんだ歌などが議論の対象になりやすい。
しかし、本当のところ歌は何かを論じるために読むのではなく、自分のなかにあるかすかな何かに触れるものを求めて読むわけである。自分でも経験があるが、時評を書くために歌集を読む作業ほどつまらない作業はない。
歌集名『空合』は、空模様というほどの意味である。やや近世的なひびきをもった言葉であるかも知れない。いかにもぼんやりとして、どこか花山さんの歌柄にぴったり。時評に向く歌集ではないのかもしれない。

身体ばかり大きいけどと自らに言ひて泣く子は泣かせおくのみ
手の甲とてのひらの皮膚異なるを男の子言ふなり気持悪しと
〈あの人って迫力ないね〉と子らがささやく〈あの人〉なればわれは傷つく
耳がかゆいといいことがあると言ひながら耳掻く夫は今日も出でざる

(新樹滴滴 「『空合』の不思議さ」 永田和宏 白水社)

以上
by 575fudemakase | 2013-10-15 07:00 | Trackback | Comments(0)

時代を共有するということ

時代を共有するということ

塚本邦雄さんが亡くなり、いくつもの雑誌で追悼号が組まれた。

(中略)

私たちが短歌を始めた頃、塚本邦雄らによる前衛短歌運動の影響は今からは想像もつかないほどに強かった。近代短歌から切れなければならないという意識が強く、そのような影響から、短歌作品は、あくまで作者その人と切り離して鑑賞すべきであるというテーゼが、疑うべくもないものとして厳然と存在した。作品は、あくまで作品そのものを、それだけをテクストとして鑑賞されるべきであり、作者個人に関する情報は、そこからは排除されるべきであるという姿勢が、強調されていた。
確かに作者にずるずるべったりの近代の鑑賞態度から切れるためには必要な姿勢ではあったのだろうが、しかし一方で、もっとフランクに考えてみれば、何も無理に作者に関する情報をシャットアウトする必要はないのである。作者を知らなくとも十分鑑賞は出来るが、作者を知っていれば、またもうひとつ輻輳的な鑑賞も可能である、そんな余裕をもった鑑賞こそが本当は大切であった。作者の情報をインプットすべきではないというストイシズムの徹底は、結局は歌の読みを痩せさせることにしかならなかったのではないかというのが、現時点での私の感想である。知らなくてもいいが、知ったほうがもっといいのではないか。そんな当たり前なことを口に出して言うのにさえ、何年もの、十数年もの時間が必要であったのかという感慨が深い。

(中略)

我がジャケツのポケットに手を差し入れて物言はぬ子の寄り添ひ歩む 高安国世 (『真実』)

この一首も高安国世の背景を知らなければ、若い父と子のある夕暮れの帰宅風景という観賞がなされようが、背景を知ることによって歌は一挙に別の悲痛な色彩を帯びてくるだろう。「塔」の会員には周知の事実だが、高安先生には耳の不自由な子息がある。「物言わぬ子」にはそんな伏線があるが、作者のポケットに手を「差し入れて」黙ってついてくる子を哀れに思い、脅えるようにその将来を思い、そして自らの背負わねばならない荷を思う作者がそこに居る。
繰り返すが、背景を知らなければ読めない歌は駄目である。しかし、背景を無理に排除することはないのである。要は、背景や作者の境遇、状況にふりまわされない批評が大切なのである。

(中略)

ある時代を生きるとは、単に物理的な同一時間のなかに生きていることの謂いではない。誰と時代を共にし、その共有した時間を誰と一緒に語ることができるか、それに尽きるのではないか。そのもっとも小さな単位が家族であり、私たちには結社というもう一つの単位がある。もう少し広げれば、塚本邦雄や先般亡くなった春日井建なども含んだ、同時代歌壇という範囲まで見えてくるだろう。
そのような一つ一つの出会いを大切に思うことは、自分が今という時代を大切に生きるということでもある。そしてある時代を共にした歌人たち、同じ結社に居た仲間たちを大切に語ることは自分の時間を大切にすることの別の謂いではない。

(二〇〇五年九月)

(新樹滴滴 「時代を共有するということ」 永田和宏 白水社)


以上
by 575fudemakase | 2013-10-14 10:38 | Trackback | Comments(0)

ライト・ヴァースについて

ライト・ヴァースについて


「新樹滴滴」でのライト・ヴァースについての見解は興味深い。

岡井隆さんの『短歌の世界』(岩波新書)を読んでいる。一応、入門書の類と言えるのだろうが、内容は入門という範疇をはるかに越えている。おもわず線をひいてしまう箇所がいくつも出てくる。

(中略)

たとえば、「軽い歌について」という節は、こんな風に始まる。
「まず、ふつうの歌の例を出す。ふつうの歌は、重くて暗いのである。英語でライト・ヴァースに対する言葉がヴァースであるように、軽い歌の反対は、ただ、歌である」

(中略)

「過去は知らない。未来も不明である。現在だけが大切。動詞の現在形を繁用する歌が、急速にふえて、過去や過去完了を示す助動詞(ぬ、つ、たり、けり、き、など)が急速にへって行ったころから、軽い歌が目立って来たことは、現在だけに集中してうたう現代人の心理をあらわしているといえるかも知れない」
はっとした一節だ。ライト・ヴァースについては、さまざまに言われてきた。その中でも、現在形だけに意識が集中しているというこの発見は、これまではほとんど指摘されなかったものであり、そして見事にライト・ヴァースの本質をついた見解である。コロンブスの卵である。で、あるが、そういう類を言いあてるのが、ほんとうはいちばんむずかしいものだ。
しかし、いっぽうで私は思うのである。こんなふうにあるエコール、あるいはひとつの運動の特徴がつかまえられるようになってきたとき、その運動はすでに終熄期に入っているのではないだろうか、と。
現在進行形で運動が進んでいるとき、その渦中にある人間はもちろん、その同時代者として伴走している人間にも、なかなか本質は見えてこないものである。ライト・ヴァースについては、わたしをも岡井さんをも含めて、さまざまの歌人や評論家が論じてきたが、現象そのものについてはどれも的確にとらえてはいながら、その本質に届いているものは少なかったように思う。

(中略)

「軽い歌は、いまでは、現代短歌の通貨になっている」という岡井さんの言に賛成である。ライト・ヴァースにどんな異を唱えていようと、だれもが、知らないうちにその影響を受けて歌を作っている。時代とはそういうものだ。運動とは、その同調者以上に、それに否定的な人々にこそ、大きな影響を与え、爪痕を残して終わるものである。
そんなとき、軽い歌の節を締めくくる次のようなエピグラムの味わいは深い。
「いうまでもないが、ふつうの歌(ヴァース)が作ることができて、はじめて、軽い歌(ライト・ヴァース)がうまく作れるのであって、この逆ではない。このことは、いくら強調しても、しすぎではない」


(一九九六年一月)

(新樹滴滴 「見えたものは終わったものか」 永田和宏 白水社)


以上
by 575fudemakase | 2013-10-13 05:54 | Trackback | Comments(0)

全歌集の〈時間〉

全歌集の〈時間〉

熟ゞ(つくづく)とそのさびしさを辿りきて全歌集そろそろ死に近きころ (「短歌」七月号)

という歌を最近作ったが、そんな雰囲気でもある。わずか一冊の歌集、たかだか数千首に過ぎない作品のなかに、ひとりの人間の生涯の時間の総体が詰まっているというのは、考えてみれば、健気にもさびしいことである。

(中略)

大西民子の師、木俣修が初めて大西を迎えたとき言ったという言葉があって、その通りだと思ったことだった。木俣はまず「歌はマラソンだ」と大西に言ったのだという。「マラソンというのは、途中で止めて走らなくなってしまっては負けなんだよ。歌は終りのないマラソンだ。敵はたった一人、自分だよ。誰と競争するんでもない。自分の我儘と競争するんだ。敵はたった一人のマラソンで、そのマラソンはあなたが死んで、お棺に蓋をしたときに終わるマラソンなのだよ。その覚悟はあるか」というのが木俣の言葉。まことにその通りだと、私も思う。このところ幾つかの場で、私自身も同じようなことを言ってきている。特に若い歌人などで、たとえ一時的に華やかな脚光を浴びたとしても、それだけでは私はその人を歌人とは呼ばないし、呼びたくもない。どのような取り上げられ方をしても、また取り上げられることが少なくとも、そんなこととは関係なく、死の時まで、営々と歌を作り続けていった人、あるいはそんな覚悟で歌を作り続けている人、そんな人を私は歌人と呼びたい。つまりは長い短いはあるにしても、自らの時間のすべてをそこに刻み込もうとしている総体を指して、歌人と言いたいのである。

(中略)

それ故にこそ、時間を大切にしたい。「自分の時間にだけは嘘をつかないで歌を作りたい」と何度か述べてきたが、それは、そのような思いからである。いま歌えることは、いま歌うしかない。いましか歌えないことを歌うからこそ、その歌の時間は、作者そのものの時間なのである。青春は一回きりとは言い古されたフレーズだが、ことはもちろん青春だけではない。宇宙百五十億年の、地球五十億年の、人類一万年の、そんなどんな時間とも対峙し、しかもそのどれよりも大切なのが、たかだか百年に満たない、私自身の時間のはずである。全歌集を読んでいると、その一首一首の作られた作者の〈いま〉がまことに健気にもいとおしいものに思えてくるのである。

(二〇〇九年七月)

(新樹滴滴 全歌集の〈時間〉 永田和宏 白水社)

以上
by 575fudemakase | 2013-10-12 01:37 | Trackback | Comments(0)


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インターネットの「Google」や「yahoo」の検索ボックスから、季語等を入力して数多くの例句を得られれば大変便利である。

具体的に季語“新樹”の例句を求めるには、先ず検索ボックスに“新樹”と入力する。
その後、ひらかなで“れいく”と入力する。この時、日本語変換候補に幾つかの語彙が表示されるが、その中から“575筆まか勢”を選択する。
この結果、検索ボックスには “新樹575筆まか勢”と表示される筈である。
この用語で検索すれば求めるサイトが表示される。

但し、上述の ひらかなの“れいく”と入力して“575筆まか勢”を選択する為には、事前に小細工をしておく必要がある。
即ち、ユーザーズ辞書を使って “れいく=575筆まか勢”を定義しておく必要がある。以下はその指定方法。

ユーザーズ辞書定義

▼iPadの場合
設定>一般>キーボード>ユーザーズ辞書

単語 575筆まか勢
よみ れいく

▼kindleの場合
アプリ>設定>言語とキーボード>キーボードの設定>ユーザーズ辞書

読み れいく
表記 575筆まか勢

PCの場合も同様に「ユーザーズ辞書」機能を使い、前もって定義しておく。

春の季語から現在の当季季語までは既に表示可能である。
来年の三月末(2015年3月末)までに全季語について表示可能となる。

以上

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