人気ブログランキング | 話題のタグを見る

聴覚思考 メモ

聴覚思考 メモ
外山滋比古 中央公論社 2014・11・10

日本語
表音文字→仮名 表意文字→漢字

日本語は「漢字まじりの仮名文」
日本語をそのまま話すのは不自然である。何故なら漢字は目でみなくては判らない故。

欧米語→言文一致
日本語→言文不一致 言文一致運動

▼俳句世界

俳句は名詞中心。(漢詩、漢文を遠い源流とする)

目に青葉山ほととぎす初鰹 素堂
奈良七重七堂伽藍八重桜 芭蕉

近年、女性の「動詞多用の作句法」が入ってきた。


俳句が十七音で独立した作品になり得るのは、視覚的想像を基盤にしているからである。作者としても、目のイメージによって、大きな世界を暗示し、享受する側も、同じく視覚的想像力によってそれをまとまりあるタブローにして解する。充分、意味のはっきりしないところにおもしろさを覚える。そういう俳句にとって意味において正解というものが存在しないと言ってよく、受け手の解するものは十人十色に異なっている。(中略)

俳句に動詞が多くなったということは、俳句が視覚的なものから、聴覚的性格のつよい表現に転じたということで、その意義は小さくない。伝統的俳句とともに立つことができないようになるかもしれない。これは、俳句だけに限ったことでなく、日本人の認識と思考にかかわる問題である。

▼日本的論理

ことばの送り手は、線のようなことばを並べ、つなげていく。それを受け手がたどって意味をとることになる。
その送り手と受け手が、心理的に近接、親密であるとき、形式の整った線的論理が情報過多と感じられるようになる。わかり切った、見当のつく部分を切りすてても伝達が可能になるだけではない。線がうるさくなり、部分的に省略、欠落させる。それが表現を引き締め、密度のあるコミュニケーションとして歓迎されるようになる。そこで線の部分的風化がおこる。
普通の線的筋道がこうして、だんだん短くなり、さらに、退化すると、点になる。線的論理がいわゆる論理であるが、身近な同士においては、点的論理が通じ合い、おもしろくなってくる。(中略)
つまり、論理は、人間関係によって、密疎を異にする、ということである。人間関係の親密度が高まれば高まるほど、形式的論理の密度は疎になる。ある時点において、線としての論理が風化して、点に近づくと考えられる。
点的表現は点的論理を生む。それが線的論理にない、あたたかさ、含み、おもしろさをもつことが発見されると、省略の文化が生まれる。
俳句は世界最小の詩と言ってよいだろうが、この点的論理なくしては存在し得ないことははっきりしている。十七音の小さな表現で、情感を伝えることができるのは、作者の力だけではない。受け手が、その点を結び、あるいは関係づけて、おのずからの理解を成立させるはたらきがないと、成立しない。
線的論理は切れ目がないのが当然とされるから、その線をたどってゆけば、脱線ということはない。脱線すれば、受け手の責任であるとして責められる。線的論理の表現には正解があり、誤解がある。
それに対して、点的論理では、いわば、散乱し、切れている。筋道などあろうわけがない。したがって、いわゆる正解は存在しない。
点的論理によって支配されていることば、表現は、必然的な論理、直結関係による意味とは違った情感的意味をもっている。
点的論理による表現は、連続していないが、それを結び合わせて複雑な図形のような意味を結ぶことができる。そうして切れているが、つながりをもつことのできる、非連続の連続が可能になる。線的論理では考えることもできない。(略)。
線的論理の社会である欧米において、近年、俳句に対する関心が高まり、一部では、俳句もどきではあるが、ハイク.ポエムを作る人まであらわれているのは、興味ある現象である。欧米の文化が、点的論理の美学をそれとも知らず、心ひかれるようになっていると解することができる。

▼玉虫色の美しさ

日本人は、「AはBである」と言い切ることがあまり好きでない。ことに「ある」というセンテンスが重なるときは、なんとかして、繰り返しを避けたい気持ちがはたらく。変化をつけたい。さしずめ手近なところに〝であろう〟がある。それで言い換えよう、という心理で〝であろう〟が生まれる。推量などではない。「AはBである」というのと「AはBであろう」というのはほぼ同じ意味である。それを違うとするのは論理的であり、同じだと思うのは修辞的である。(略)
日本は大昔から、修辞ということを意識しないまま、修辞的であった。その分、いわゆる論理とは縁がうすかった。形式論理の考えは明治以後、欧米文化に接触してはじめて存在を知り、日本人の劣等感のひとつになった。
日本文化の特色は、相手尊重にある。自己中心の文化を第一人称文化と呼ぶならば、日本文化は第二人称文化である。自分を抑えて相手を立てる。第一人称をふりまわすようなことばははしたない、傍若無人のこととして嫌われる。敬語が発達するのは自然の成り行きである。〝であろう〟が好まれるのも、相手への顧慮に根ざしていて、かすかながら敬語の心に通じるところがある。
白と黒をはっきりさせれば、明快であるが相手にとって、第三者にとっても、解釈の余地がない。自分の出る幕がなくてはおもしろくない。無視されているように感じる。わかり切ったことを言われると、ヒトをバカにするな、という気持をいだくのが、もののわかった人である。だいいち、白と黒しか認めないのは自然の理に反している。自然は多色である。黒白はむしろ極端なケースである。
色どりにしても、赤とか青とかを独立して認めるのもいくらか単純である。もうすこし洗練された感覚は混合色を賞でる。渋い美しさは複合色によってあらわされる。幼児の絵は色を重ねることを知らない。複合色の典型が玉虫色である、と言ってよいだろう。白とか黒、赤や青は、だれがどう見ても、それ以外の色になることはないが、玉虫色だと、見る人、見る角度によって色合いが変わる。それをおもしろいと感じるのは円熟した社会の大人の感覚である。対立する二つの勢力はなかなか妥結点見出せない。白か黒かを争えば、いつまでたっても話し合いはまとまらないだろう。互いに自分の考えを託することのできる妥結は、多く玉虫色である。双方で見方が異なっているまま、ある共通理解が成立する。そういうところで争いを回避できる。相手尊重の心がいくらかでも存在しないところでは玉虫色の合意は得られない。
絶対、純粋をつきつめていけば、争いになるのは理の当然である。醜い競争を避けるには、互いに、すこしのウソを認める、そのウソを自分の都合のよいように解釈することで対立、敵対を解消させるのは社会的英知であるといってよい。妥協を不潔と見るのは書生論である。
玉虫色の美しさを認めるのは、いろいろな経験をした社会である。歴史の浅いところでは、評価されないのは是非もない。

日本文化は〝あいまい性〟の文化である。相手かまわず断定、主張、押し通すのは嫌われる。一歩さがって、控え目に、ぼかした表現をして、あとは、相手にゲタを預ける。どうぞ、ご随意に、というわけである。まさかひどいことはすまい、という相手への信頼がある。もしも、ゲタをはき違えるようなのがあれば、野暮、として相手にしなければいい。
野暮と思われたりしたら恥である。あいまいをうまく受け入れるには才覚をはたらかせないと、話のわからない人間だと思われる。
禅問答が一般の人にも興味あるものになったのは、意味がはっきりしないからである。解釈を許すからである。単純な理屈ではお話にならない。謎解きは受け手のはたらきを誘発するから、おもしろいのである。(略)

考えてみると、日本の俳諧は、あいまいの美学とも意識されない、省略の美学ともいうべきものによってジャンルとして確立した。俳諧、俳句はこれによって定立している。十七音という短詩型で独立できるのは、まったく、あいまい性のおかげである。十七音では、普通なら、何も言えない。おもしろくなるわけがない。主張的表現をすて、暗示的な表現法があってはじめて、短詩型文学が可能になる。論理ではなく連想と解釈のはたらきによって独自の世界を創出できる。
そういう考えが成立したのは、高度の言語感覚をもった小集団が存在したためである。風流人である。あからさまなことを書くのは、野暮であるという意識で、わざと不明瞭な、洞察を要する表現を目ざした。あいまいになるのは自然で、それをむしろ喜ぶ教養が共有されていて、暗示的な、多義的な措辞が方法化したと思われる。ものごとをあらわすにも、すべてを表現しては、おもしろくなくなる、というので、省略的、不完結の表現が美しいのだという詩学になった。芭蕉のことば、「言いおおせて、なにかある」はそれを道破したものと考えることができる。
俳諧は、受け手をつよく意識している。その相手におもしろいと思われることを願っている。わかり切ったことを言うのは、その相手を見おろすことになる。婉曲に、暗示的にすべてではなく要点を表現する。
もともと、俳諧は、ひとりの作者、ひとりの受け手を想定しているのではなく、数名の連衆の場で展開された連句である。互いに気心がわかっている。肝心なことに、軽く触れるだけで、充分にわかってもらえるという信頼感がある。
「言いおおせ」た表現は、線的になるが、あえて、あいまいであることを目指す表現は点的になる。線的表現では、あいまいであることはできない。点のようなことばを巧みに散乱させることによって、常識的論理を超越、象徴的、暗示的なことばを創り出す。わかりにくいことばを解釈するのがおもしろいという通人の中から、あいまいの美学が生まれた。

以上
by 575fudemakase | 2015-01-27 15:47 | その他


俳句の四方山話 季語の例句 句集評など


by 575fudemakase

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

カテゴリ

全体
無季
春の季語
夏の季語
秋の季語
冬の季語
新年の季語
句集評など
句評など
自作
その他
ねずみのこまくら句会
ブログ
自作j
自作y
j
未分類

以前の記事

2025年 11月
2025年 10月
2025年 09月
more...

フォロー中のブログ

ふらんす堂編集日記 By...
魚屋三代目日記
My style

メモ帳

▽ある季語の例句を調べる▽

《方法1》 残暑 の例句を調べる
先ず、右欄の「カテゴリ」の「秋の季語」をクリックし、表示する。
表示された一番下の 「▽ このカテゴリの記事をすべて表示」をクリック、
全部を表示下さい。(全表示に多少時間がかかります)
次いで、表示された内容につき、「ページ内検索」を行ないます。
(「ページ内検索」は最上部右のいくつかのアイコンの内から虫眼鏡マークを探し出して下さい)
探し出せたら、「残暑」と入力します。「残暑 の俳句」が見つかったら、そこをクリックすれば
例句が表示されます。

尚、スマホ等でこれを行なうには、全ての操作の前に、最上部右のアイコンをクリックし
「pc版サイトを見る」にチェック印を入れ実行下さい。


《方法2》以下はこのサイトから全く離れて、グーグル又は ヤフーの検索サイトから
調べる方法です。
グーグル(Google)又は ヤフー(Yahoo)の検索ボックスに見出し季語を入力し、
その例句を検索することができます。(大方はこれで調べられますが、駄目な場合は上記、《方法1》を採用ください)

例1 残暑 の例句を調べる

検索ボックスに 「残暑の俳句」 と入力し検索ボタンを押す
いくつかのサイトが表示されますが、「残暑 の俳句:575筆まか勢」のサイトを
クリックし表示ください。
[参考] 【残暑】残る暑さ 秋暑し 秋暑 【】=見出し季語

例2 盆唄 の例句を調べる

検索ボックスに 「踊の俳句」 と入力し検索ボタンを押す
いくつかのサイトが表示されますが、「踊 の俳句:575筆まか勢」のサイトを
クリックし表示ください。
[参考] 【踊】踊子 踊浴衣 踊笠 念仏踊 阿波踊 踊唄 盆唄 盆踊 エイサー 【】=見出し季語

以上 当システムを使いこなすには、見出し季語をシッカリ認識している必要があります。

検索

タグ

最新の記事

辻桃子句集 水蜜抄を読んで ..
at 2025-11-06 07:28
角川 俳句賞(2025年)を..
at 2025-10-26 07:29
最近の嘱目句あれこれ43 2..
at 2025-10-24 01:30
最近の嘱目句あれこれ43 2..
at 2025-10-24 01:11
樹令
at 2025-10-24 00:17
最近の嘱目句あれこれ42 2..
at 2025-10-04 11:56
最近の嘱目句あれこれ41 2..
at 2025-10-02 06:12
最近の嘱目句あれこれ40  ..
at 2025-09-15 00:50
最近の嘱目句あれこれ39  ..
at 2025-09-08 08:51
最近の嘱目句あれこれ37 2..
at 2025-09-04 19:58
最近の嘱目句あれこれ38 2..
at 2025-09-04 19:52
最近の嘱目句あれこれ36 2..
at 2025-08-28 03:10
最近の嘱目句あれこれ35 2..
at 2025-08-19 21:35
最近の嘱目句あれこれ34 2..
at 2025-08-17 20:50
尾山篤二郎 国文学者、歌人 ..
at 2025-08-14 16:00
最近の嘱目句あれこれ33 2..
at 2025-07-28 18:41
坂口昌弘著 忘れ得ぬ俳人と秀..
at 2025-07-14 04:15
石田郷子句集 万の枝を読んで..
at 2025-07-11 06:30
最近の嘱目句あれこれ32 2..
at 2025-07-10 18:25
最近の嘱目句あれこれ31 2..
at 2025-07-01 04:00

外部リンク

記事ランキング