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⑪コショウ ヨーロッパが羨望した黒い黄金


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⑪コショウ ヨーロッパが羨望した黒い黄金

ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料であったが、
肉は腐りやすいので保存できない。
香辛料は「いつでもおいしい肉を食べる」という
贅沢な食生活を実現する魔法の薬だった。

◾️金と同じ価値を持つ植物◾️
その昔、コショウは金と同じ価値を持っていたと言われている。教科書でそんな話を習ったときに、こんなものに、そんなに価値があるのかと思った覚えのある人も多いだろう。胡椒は、今なら数百円で売っている手軽な調味料だ。古来、ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料であった。冷涼で乾燥した気候では、イネ科の草原が広がる。しかし、イネ科植物の茎や葉は人間の食糧とはならない。そこで、イネ科の植物を牧草として草食動物に食べさせて、動物の肉を食料とするのである。家畜は英語で「リブストック」と言う。これは生きた「在庫」という意味である。しかし、冬になると家畜に食べさせるエサがなくなってしまう。今では草を乳酸発酵させたサイレージや保存の効く穀物がエサとして用いられるが、草を刈って保存しておくことしかできないと当時は、十分なエサを確保することができなかったのである。そのため、冬になる前に家畜を殺して肉にした。しかし、肉は腐りやすいので、保存しておくことができない。それでも、冬の間はその肉で食いつなぐしかなかった。そこで、乾燥させたり、塩漬けにしたりするほかなかったのである。ところが、香辛料があれば肉を良質な状態で美味しく保存することができる。香辛料は、「いつでもおいしい肉を食べる」というぜいたくな食生活を実現してくれる魔法の薬だったのである。ところが、ヨーロッパの人々にとってコショウは、手に入りにくい高級品であった。コショウは南インド原産の熱帯植物なので、中東のアラブ地域やヨーロッパでは栽培することができない。そのため、インドから陸路はるばる運ぶしか手に入れる方法はなかったのである。
ゆえに、多額の輸送費がかかるし、無事に運べるとは限らないから、どうしても高価になる。しかも、コショウがインドからヨーロッパに来るまでには、アラブ商人やベネチア商人を経由しなければならなかったし、通行税も課せられたから、価格は跳ね上がった。そのため、コショウは驚くほど高価だったのである。

◾️コショウを求めて◾️
十字軍が遠征すると、騎士たちはイスラム圏の食べ物を味わった。そこでは、コショウなどの香辛料が使われていたのである。そして、十字軍がコショウなどの香辛料を母国に伝えると、中世のヨーロッパの人々は羨望するようになった。コショウなどの香辛料を、陸路を通ることなく、インドから海路で直接、ヨーロッパに持ち込むことができれば、莫大な利益が得られる。コショウが欲しいヨーロッパの人々は、誰しもそう考えたはずである。しかし、それはとうてい不可能な夢だった。中世のヨーロッパの船乗りたちにとって、海とは主に地中海のことであった。しかし、地中海の外側にあるポルトガルやスペインにとっては、地中海での貿易は難しい。そのため、地中海の外側に船を繰り出していった。それでも、アフリカ大陸の沿岸を航行するのが精一杯だったという。アフリカの北西部にボジャドール岬という小さな岬がある。船乗りたちは、この小さな岬を越えることさえできなかったという。ヨーロッパの人々にとって、海の向こうの世界とは、一度越えれば生きては帰れない恐ろしい世界だったのである。しかし、勇猛果敢なポルトガルのエンリケ航海王子の派遣した船団がその岬を進むと、そこには象牙や砂金などの価値ある交易品があった。そして、アフリカにはコショウに似た味のするマラゲッタペッパー(ギニア生姜)と呼ばれる植物もあったのである。マラゲッタペッパーはショウガ科の植物で、コショウ科のコショウとは別物であるが、香辛料としては十分に使えるものだった。後に、このマラゲットペッパーの取引が行われた場所は「胡椒海岸」と呼ばれている。そしてこの船団は、強靭な肉体を持つ黒人も奴隷として連れ帰った。これが「大航海時代」の始まりであり、暗黒の歴史である奴隷貿易の始まりである。やがてポルトガル国王の命を受けたバルトロメウ・ディアスの船団は、ついにアフリカ南端の喜望峰に達し、大西洋からインド洋への航路の可能性を発見する。ところが、その頃、ポルトガルにとってショッキングなニュースが飛び込んできた。それが、1492年にコロンブスがインドに到達したというニュースだったのである。ポルトガルに大航海時代の先を越されていたライバル国のスペインは、ポルトガルの東回り航路に対抗して、西回り航路を目指すコロンブスを援助したのである。現在の私たちは、コロンブスが到達したのはインドではなく、アメリカの西インド諸島であったことを知っている。しかし当時は、コロンブスはインドに到達したと信じられていたのである。

◾️世界を二分した二つの国◾️
コロンブスが到達したのはインドではなかったが、そこは豊富な資源がある場所であった。そのため、ポルトガルやスペインは競って新大陸を探検し、次々に植民地化を進めていく。コロンブスが新大陸に到達する以前から、ポルトガルとスペインは覇権を争い、船の到達先で紛争を繰り返していた。この度重なる紛争を解決するために、1490年にカトリック教皇によってスペインとポルトガルの間で交わされたのが、トルデシャリス条約である。条約が結ばれたのは、コロンブスが新大陸に到達した2年後の事である。この条約で大西洋に境界線が引かれ、西経46度37分の境界線より東側で発見された土地は全てポルトガルが領有し、境界線の西側で発見された土地はすべてスペインが領有することになった。こうして、ポルトガルは支配を強めていたアフリカを手に入れ、スペインは発見されたばかりで未知の土地であったアメリカ大陸を手に入れることになる。こうして、ポルトガルとスペインは世界を二分して支配するようになったのである。しかし、他のヨーロッパの国から国々からすると、これは面白くない裁定であった。そのため、オランダやイギリスがカトリックから離れてしまうきっかけにもなった事柄である。その後、スペインはアメリカ大陸の植民地化を進めていった。インカ帝国がスペイン人に征服されたのもこの時である。現在でも中南米の多くの国々はスペイン語を話す。ただし、南米のブラジルだけはポルトガル語である。ポルトガルの探検家が発見したブラジルは、境界線の東側にあった。そのため、ブラジルはポルトガルの植民地となったのである。やがて、アメリカ大陸を制したスペインは、さらに西回りの航路でアジアへの到達を目指すのである。そして、アメリカ大陸から太平洋を渡ったのがフェルディナンド・マゼランである。マゼランはポルトガル人であったが、スペイン王室の命を受けて太平洋を横断する。残念ながらマゼランは途中で命を落としてしまうが、彼の部下たちは、ついに世界一周を成し遂げるのである。

◾️大国の凋落◾️
コロンブスがアメリカに到達した6年後の1498年、ヴァスコ・ダ・ガマは、ついに東回り航路でインドに到達する。そして、ポルトガルは胡椒を求めて、次々にインドへ向けて船を出すようになるのである。しかし、富を得たポルトガルは次第に没落していく。アフリカとの交易によって黒人奴隷が増えたことによって、ポルトガルの農民たちは次第に労働意欲を失い、生産力は低下していった。そして、富によって政治や貴族社会も腐敗していったのである。他方、スペインから独立を果たしたオランダは、スペインの支配から逃れるために、財力を必要としていた。また、オランダは新教徒のプロテスタントであり、カトリックの国であるスペインから迫害を受ける恐れもあった。そのため、どうしても自力でアジアの香辛料が欲しかったのである。ポルトガルは東回りでアジアへ向かう。スペインは西回りでアジアへ向かう。後れをとったオランダやイギリスは第3の道を目指した。それが、北から中国へ入る北航路である。しかし、北極圏を通るような北航路は実現しなかった。また、イギリスは新しい航路を求めて探検を繰り返し、オーストラリアやハワイ諸島を発見する。やがて、オランダは相手国と友好を結びながら、国交を広げていくようになった。これには理由がある。スペインやポルトガルは自国の貿易の独占を守るために、白人はスペイン人とポルトガル人だけで、オランダ人は野蛮であるとアジアの諸国に伝えていた。そのため、悪評を払拭するためにオランダは現地の君主と友好を深めようと務めたのである。また、乱暴な征服や強引な植民地支配により、スペインやポルトガルといった大国が瞬く間に凋落していく様子を目の当たりにしたオランダやイギリスは、丁寧な植民地支配を心がけた。やがて、イギリスはスペインの無敵艦隊を破り、オランダは東インド諸島でポルトガルを打ち破った。そして世界の覇権はイギリスとオランダへと移っていったのである。

◾️オランダの貿易支配◾️
スペインによる貿易制限を受けていたオランダは、頼みの綱のポルトガルがスペインに併合されると香辛料の入手が困難になった。そのため、独自に香辛料を入手する必要があった。しかし、複数の商社が競いあってコショウを入手しようとしたため、現地でのコショウの価格は高騰した。さらに、オランダ国内では競いあってコショウを売ったので、コショウの価格が下落した。そのため、オランダは複数の商社をまとめて大規模な会社を作り、貿易の権限を独占させた。それが東インド会社である。ただし、コショウの価格が高かったのは、アジアからヨーロッパに運ぶのが大変だったからである。航海技術が進み、コショウが安定的にヨーロッパにもたらされるようになると、コショウの価格が次第に低下していった。特に産業革命が起こり、蒸気船が造られると、大量のコショウがヨーロッパに運ばれた。そして、コショウの価格は下落したのである。コショウは肉を保存するために必要なものであった。しかし、ぜいたくな食生活をする貴族であれば、金さえ出せばいつでも新鮮な肉を食べることもできる。実は、胡椒は実用的な保存料というだけでなく、むしろステータスを表すシンボル的な存在だったのだ。さらにコショウに変わる香辛料も、様々な種類がヨーロッパに持ち込まれるようになった。そのため、かっては金と同じと言われたコショウの価格は、急激に下がっていった。そこで、東インド会社はある交易品に目をつける。それが後ほど紹介する「チャ」である。

◾️熱帯に香辛料が多い理由◾️
丁子(クローブ)、シナモン、ナツメグ、ジンジャーなど、ヨーロッパの人々がインドに求めた香辛料はコショウだけではない。それにしても、どうしてヨーロッパの人々に必要な香辛料がヨーロッパにはなく、遠く離れたインドに豊富にあったのだろうか。香辛料が持つ辛味成分は、もともとは植物が病原菌や害虫から身を守るために蓄えているものである。冷涼なヨーロッパでは害虫が少ない。一方、気温が高い熱帯地域や湿度が高いモンスーンアジアでは病原菌や害虫が多い。そのため、植物も辛味成分などを備えている

◾️日本の南蛮貿易◾️
トルデシャリス条約でポルトガルとスペインは世界を二分したが、この条約には問題があった。1522年にマゼラン艦隊が世界周航に成功すると、「地球が丸い」ということが実感されるようになった。境界線の東側がポルトガル、西側がスペインと分けても、東に向かっても、西へ向かっても地球の裏側でぶつかってしまう。地球の裏側では、この境界線はどこに引かれるのだろうか。そこで、1529年にアジアに境界線を引いたのが、サラゴサ条約である。この時ひかれた境界線は、ちょうど日本が境目にある。つまり、ポルトガルにとってもスペインにとっても自分のもののように見える場所にあったのである。それでは、日本の歴史を眺めてみることにしよう。16世紀に種子島に漂着して鉄砲を持ち込んだのは、どこの国の船だったろう。これはポルトガルの船である。ヨーロッパから東回りでアジアへの航路を開き、アジア各国を訪れたのはポルトガルが最初だった。そのため、ポルトガル船が最初に日本にやってきたのである。戦国時代に日本で布教活動をしたルイス・フロイスはポルトガル人であるし、フランシスコ・ザビエルもポルトガル王の命を受けてインドで布教活動していた宣教師である。そして、織田信長や豊臣秀吉と南蛮貿易を行ったのもポルトガルであった。その後、スペインはアメリカ大陸を経由した西回りの航路で日本にやってくる。西回りにアメリカ大陸からアジアに来る事は可能になっても、貿易風は東から西へと吹いているため、インドから東へ向かってスペインに行く事は現実的ではなかった。そこで、偏西風に乗り、日本海流に乗ってアメリカに渡る航路が発見されたのである。織田信長、豊臣秀吉に次いで日本の覇者となった徳川家康は、スペインとの交易を進めた。しかしオランダはスペインが日本を侵略しようとしていると報告し、幕府はスペインと国交断絶する。そこで、スペインは仙台藩の伊達政宗と手を結び、慶長遣欧使節団をスペイン国王の元へと派遣するのである。その後、江戸幕府が出島で交易したのはオランダだった。幕府の立場では、貿易はしたいが、キリスト教の布教は禁止したかった。その点、オランダはプロテスタントであったため、ポルトガルやスペインのカトリック教徒のように布教活動を行っていなかったのである。

以上

稲垣栄洋 世界史を変えた植物  PHP文庫より引用させて頂いた

胡椒 の俳句

いく度も胡椒の花といふを見る 高野素十
こがらしにしばし胡椒の茶を売ン 玄梅
そこが花の都ぞけさの胡椒売 如行
ひっそりと青胡椒生り加速の愛 穴井太 鶏と鳩と夕焼と
ゆくはるや膳の青葉に胡椒紙 助然
一畝が四百メートル花胡椒 高野素十
雨季不順胡椒の開花二度ありし 高野素十
塩胡椒して殺生や半夏生 鳥居美智子
塩胡椒小瓶に透けり春の昼 鈴木真砂女
花胡椒一昼寝してよりのこと 高野素十
海光り冬透明な胡椒壺 花谷和子
胡椒の香家に新涼徹りけり 高澤良一 素抱
胡椒茶も船ごゝろ也朝霞 諷竹
胡椒壺さかしまに振る金曜日 橋閒石
広島の木に漠然と胡椒振る 攝津幸彦 鹿々集
山上や胡椒少々と高橋君 中北綾子
小粒リて胡椒は辛し梅の花 白雪
鐘鳴つて胡椒の花の家路かな 高野素十
真夜にふる塩・胡椒のほほえみ 早瀬恵子
卓にのる壺の胡椒と塩と薄暑 宮津昭彦
鱈汁や胡椒吹行朝あらし 舎羅
曇天の夏の終りの塩胡椒 穴井太 原郷樹林
晩年は胡椒おおいにふり撒く気 穴井 太

以上


by 575fudemakase | 2022-02-12 05:31 | ブログ


俳句の四方山話 季語の例句 句集評など


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《方法2》以下はこのサイトから全く離れて、グーグル又は ヤフーの検索サイトから
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その例句を検索することができます。(大方はこれで調べられますが、駄目な場合は上記、《方法1》を採用ください)

例1 残暑 の例句を調べる

検索ボックスに 「残暑の俳句」 と入力し検索ボタンを押す
いくつかのサイトが表示されますが、「残暑 の俳句:575筆まか勢」のサイトを
クリックし表示ください。
[参考] 【残暑】残る暑さ 秋暑し 秋暑 【】=見出し季語

例2 盆唄 の例句を調べる

検索ボックスに 「踊の俳句」 と入力し検索ボタンを押す
いくつかのサイトが表示されますが、「踊 の俳句:575筆まか勢」のサイトを
クリックし表示ください。
[参考] 【踊】踊子 踊浴衣 踊笠 念仏踊 阿波踊 踊唄 盆唄 盆踊 エイサー 【】=見出し季語

以上 当システムを使いこなすには、見出し季語をシッカリ認識している必要があります。

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